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「ぼっち」ってそんなにダメですか。

 

ぼっちのいま

ぼっちの恐怖

 ナウなヤングにとって「ぼっち」という言葉ほど恐ろしい言葉はなかなかない.あるとすれば留年とか圧迫面接とかそのあたりである.その愛らしい音の響きとは裏腹に,我々は「ぼっち」という概念から常々並々ならぬプレッシャーを受け続けている.一人でいるやつは寂しいやつで,人生損してる.時折ぼっちを好意的に捉えるような記事や発言を見たりするけれども,大抵の場合はぼっちであることのエクスキューズであったり,あるいは「ぼっち」への恐怖心の反照を抜け出せていない.恒常的に一人でいる者を指す言葉であった「ぼっち」が,一時的に一人でいることまで「ぼっちだった」などとして冗談めかして言うことも,ぼっちへの意識・恐怖の現れではないだろうか.
 

 

悲しい「ぼっち」

 道徳の教科書からテレビドラマまであらゆるコンテンツにおいて仲間や友人の美しさ,孤独の辛さがあからさまに強調される.孤独の者には憐憫と救いの手を.『人間はポリス的動物である』という言葉の通り他者の存在無くして人間らしく生きることなど不可能なんです.皆協力し合って生きましょう!
 人間がポリス(≒社会)的動物であることには,敢えて異論を唱えるつもりはない.僕らは社会に生きており,こうしてネットで腐臭を放つ脳汁にまみれたブログ記事を書いているのも,夥しい数の他者があるからこそ行えている.でも,そこで語られている協力すべき他者というのは,僕らがイメージしているものと一致しているだろうか.
 
 

 逃げ場としての他者とコミュニティ

 ぼっちへの恐怖心は僕らを他者との繋がりへと駆り立てる.その他者というのはもしかしたらそれは入学式に声を掛けたり掛けられたりした人かもしれないし,初めての教室で席が近かった人かもしれない.ぶっちゃけて言えば価値基準(世代など)が近ければ誰でも良い.少なくとも反発し合うような人間でなければ.
 ここで肝となるのが「反発し合うような人間でなければ」という部分である.僕らは大抵,他者と反発しないように勉める.自己中心的なやつはポリス的に生きるのは難しいし,反発を避けること自体は間違っていはいない.問題はその前提としてぼっちへの恐怖心が介入していることにある.意識的あるいは無意識的な「ぼっちになりたくない」という観念にとらわれている.これはつまりそうしたお友達ックコミュニティ形成の過程で相手側にイニシアチブを握られていることに他ならない.畢竟,そうしたコミュニティは逃げ場として受け入れてもらう形を取ってしまうのである.
 どういう自分であればそのコミュニティに所属できるのか.換言すれば他人が自分をどう思っているのか.ぼっちを恐れ他人を求める一方で,他人の影を過分に恐れている.
 僕らはそもそも,他人の中の自分に慣れすぎている.他人があって初めて自分があるのだと思い込んでいる. 他人にとっての自分はこうだと自分が規定して,その範疇に収まるべく自ら行動を律する傾向にある.
 

 他人と自分

ダイナミックな自分,スタティックな他人

 言うまでもないが自分自身とは本来一分一秒たりとも同じ状態にない.ただぼーっとしているだけのように思えても,精神・肉体において新陳代謝を繰り返し自分を更新している.常に流動的で留まるところがないのが自分という存在である.他方,他者というのは静的な存在である.僕らは他者に対して何らかの印象のインプットを繰り返し,「あいつは◯◯な性格で,××が好きで……」などと固着したイメージを形成していく.もちろん新たな一面を見たりするとイメージを更新することもあるけれど,それは既存のイメージをベースにしたマイナーチェンジでしかない.もし他者のイメージが静的でなければ僕らは友人と顔を合わせる都度そのイメージをスクラップ&ビルドすることになり,交流はいつも緊張感に包まれ「ああ,いつものアイツだ」などとリラックスすることはないだろう.
 

スタティックな自分?

 必然的に他者にとっての他者であるところの「他者がもつ自分像」というのも静的なものとなる.他者にとっての自分の範疇に収まろうとする,というのは「他者がもつ自分像」 の枠に嵌り続けようとすることだ.何らかの新たな変化もこの枠に収まる,つまりマイナーチェンジの枠を出ないものでなければならない.イメージチェンジだとか言って髪を染めたりもするが,結局髪色を染める事はそうした枠の範囲内のことでしかない.
 

他者から抑圧される自分

他人に迎合する自分とその閉塞感

 「他者がもつ自分像」 に収まることは自分にとって非常に快適な状態である.「他者がもつ自分像」 と自分が一致する状態は,即ち自分が他者から認められていることに他ならない.しかし,静的な自分というのは変化し続ける自分と全くの逆ベクトルの行為であるから,そこへ自分を押し込んでいると閉塞感,停滞感を感じざるを得ない.少なからぬ若者が現在に対して何らかの閉塞感のようなものを感じているのではないかと思う.少なくとも僕の目にはそう映るし,僕自身も感じることがある.
なんとなく楽しくやっているようでいて,どこか虚しいような,抑圧されているような感覚である.そのときは楽しいけれども,冷静に省みるとなんとなくつまらないような冷めたような,虚無感に近しいものだ.
 それに反抗しておけば全てが解決するような分かりやすい原因は見えない.なんだかもっと抽象的で全てを覆うほの暗いベールのような,蹴ろうが殴ろうがふわふわと受け流され,包み込まれるような感触である.

閉塞感の正体

 こうしたベールの正体の一つは僕らの自分像への漸近が原因なのではないかと思う.この漸近は自分ひとりでやっているわけではない.現代っ子が広く感染している病気のようなものである.誰もが既存の席に安住しているのである.なんとなく不平や不満もあるけれど,なんだかんだと自分は席を立ちたくない.あたりを伺いながら,自分の周りの人々が席から立ち上がるのを待っている.
 

自分があるから他人がいる

ぼっち的独我論

 実際には自分があるから他人があるのであり,その意味ではもっと自己中心的な認識をもっているほうがいいのではないだろうか.
 ぼっちはそのある種の独我論を強く実感せざるを得ない.もちろんぼっちのバリエーションは週刊少年ジャンプの派生誌並に豊かであるから十把一絡げにぼっちとまとめるのには些かの抵抗はあるけれども,やはりそこには自己の内面に潜らざるを得ないという概ね共通した行動規則がある.

自分を見つめる

 自分を見つめる,という行為は非常に辛いものである.そもそも,動的に規定され留まるところをしらない自分をただ只管に観察し,その本質を探ろうなどという行為では確たる何かを掴むことはまずない.何しろ自分は常に変化しているのだから,観察対象としての自分も,観察主体としての自分も揺れ動きながらそこにある.測る基準も,測る対象もブレブレなんだからどうしようもない.それはまさしく孤独と呼ぶべきもので,寄る辺もよすがも無い.ぼっちはしばしばネガティブだ.
 だからこそ他者という絶対的な客観性を持ったものを価値基準と置き,自分に白黒つけたがる.その白黒が上手く機能しないのは先述の通りである.
 

Be botch!

 しかし,だからこそその自分自身を詰問するような行為には意味があるのだ.
自分は捉えられないものであるという認識こそ,確固たる他者という存在の意義を感じ取れる.物は欲するときにこそ最大の価値がある.手に入れてしまえば取るに足らないものだ.それと同様に,僕らもぼっちであるからこそ他者の意義やありがたみを適切に享受できる.
 他者と自己との間にある距離感を意識して初めて,表現と迎合を異なるものだと知るのだ.
 ここで新たにぼっちという概念を定義し直したい.
 ぼっちであることは,純粋に見た目上一人でいるということでなく,即ち自分自身を際限なく捉えなおし続けることだ.
 ぼっちとは他者による自己抑圧という見えない桎梏から解き放たれるための唯一の鍵なのである.