あるリビングデッドの述懐

どうして生きているのか、と問われたならば私はこう答えるだろう。
「死ねなかったから」
 
 私が首を吊ろうとしたのは4年ほど前の話である。つい最近だと言われたらそうだし、けれど遥か昔のことだと言ってしまえばそうも思える。要するに時間的な距離感はどうでもいい。ただそのことが生命の中核を成していることだけは明らかだ。
 自死を試みた原因は今思えば呆れるほどありふれた、くだらないことだった。もちろん当時の私にとっては正しく致命的な命題だったのだが。
 具体的な内実を述べるならば、ぐだぐだと三文芝居の悲劇を語らざるを得なくなるのでここでは省略させてもらうが、端的に要約すると私が私にとっての理想像であるには私は余りに力不足だったということだ。私の自殺はまさしく私が私によって殺されるという私のセカイの中で完結した青臭い物語である。
 

 

 今私がこうしてモノローグを垂れ流していることからも明らかだが、その後私は幸か不幸か死に損なうことになった。
 首を吊ったロープが切れたとか、結び目がほどけたとか、そういう格好のつく失敗ではない。体重の二倍は支えられるロープを用意していたし、もやい結びやハングマンズノットを何度も練習して準備は万端という状態で計画的に自殺に臨んだ。
 私が失敗したのはこれまた私自身の内面の問題であって、つまり恐れをなしてあと一歩を踏み出せなかったことにある。首に縄の輪をかけ、あとは足場を蹴るだけというところで私は動くことができなかった。木に登ったはいいが降りれなくなった子猫のようにただ慄いていただけだった。首を括る以前に腹を括りきれていなかったということなのだろう。
 私は入念な事前調査によって、首にある二本の頸動脈を適切に締めることによっておよそ6秒で意識を失うことを知っていた。首吊りの場合はその後も気道を塞ぎ続けることによって酸欠で絶命することになる。つまりわずか6秒耐えれば意識のないまま気づけば昇天できるという算段だった。人は案外あっさりと死ぬことが出来る。それが当時から今まで続く認識にほかならない。残念ながら私はそれに失敗したのだが。
 
 失敗直後は随分落ち込んでいたような気がする。自らの理想が無限遠にあることを知ったから、そのオルタナティヴな理想としての終局を志向したわけで、それすら拒否されてしまうなら、私はどう生きればいいのか、あるいはどう死ねばいいのか、なんて無駄に哲学的なアポリアに取り組んでいたように思う。
 今の私ならそれを弁証法的にこう解決する。
「死んだように生きればいい」
 
 私は無限遠の到達不可能な理想という存在に気を取られすぎて、死という観念を捉えそこねていた。死は常に現在に現前し続けるものであって、どこかの一点に収斂するということはない。生があれば常に死が付き纏うわけで、しかもその反転はわずか6秒あればいい。
 無限遠にプロットされた理想というのはつまるところの虚構である。理想は現実の延長線上にあるが、虚構は現実をいくら引き伸ばしたところで到達することはない。
 人は基本的に完全な暗中を模索できるほど強くないらしい。自分の進行方向に光を見出すものだ。それがたとえ幻であったとしても、あるいはそれが幻であることに気づいたとしても、そこに向かって行くしか無いのだろう。それが実在しない事実に耐えられない者が終わりを選択する。
 
 終わり損なった私に残されたものは、いつでも終われるという実感だった。その道程はアルケーからテロスへ向かう物語ではなかったのだ。
 
 死ねなかったから生きている、というと恐らく多くの人はニヒルな意味で生きているのだと解釈するだろう。けれどもそれは誤りだ。
 最早私はあらゆる光点が幻想であることを知った。けれどもそれは何もないのではなくて、闇という実体がそこにあるのだ。私はそういう暗闇を歩いている。それ自体は決して虚無じゃない。なにしろ自分の足が地を踏みしめて、疲弊しながら、汗をかきながら歩いているのだから。
 
 生粋の生者は何者かになりたがる。将来の夢とか希望とか。あるいは誰かにとっての友達だとか恋人だとか大切な人だとか。これまでの人生で何度そういうことを尋ねられただろう。しかしそれは虚構でしかなかった。あらゆる尺度で相対化される無限の可能世界の一つに過ぎない。
 たぶん、我々が本当に知らなければならないのは、間断なく考え続けなければならないのは、「何者になるか」ということでなく「何者であるか」なのだと思う。何者になるかばかり考えていたのでは、きっと何者にもなれない。それは幻視した光点のように、いつまでも遥か遠くにあり続けることだろう。
 
 私は絶えず変化し続け一処に留まらない流体のようなものだ。
 それをあえて一つの具象として捉えるならば、恐らくその変化そのものが実体なのだろう。